画面の向こうで、圧倒的な美貌を持つ20代の女性ライバー・S羅が、まるで恋人に甘えるような声で呟く。
「あーあ、このままだと今月のランキング落ちちゃうぅ……。誰かぁ……お願い。ギフト投げてほしいよぉ……。S羅を助けて……。」
時刻は深夜2時45分。
関東近郊にあるの築30年の木造アパートの一室で、会社員のT也(34歳)は、暗闇の中に浮かび上がるスマートフォンの液晶画面を血走った目で見つめていた。
画面に表示されている生配信の視聴者数はわずか8人。
日中の数千人がひしめき合うゴールデンタイムとは違い、深夜の配信はライバーと1対1で会話しているかのような強烈な錯覚をもたらす「過疎部屋」と化していた。
T也は昼間、都内にあるインターネット回線会社の子会社で契約社員として働き、カスタマーサポートセンターを担当している。
上司からは理不尽に叱責され、顧客からは怒声を浴びせられることも多い。
職場で名前が呼ばれる時は、決まって誰かのミスを押し付けられるか、面倒なクレーマーの対応を振られる時だけだった。
社会の歯車ですらない、代替可能な消耗品としての毎日。
だが、このライブ配信アプリの中だけは違った。
T也の親指が、画面右下に配置された「デジタルギフト」のアイコンをタップする。
選択したのは、1発10,000円相当の価値を持つ、画面いっぱいに派手なエフェクトが飛び交う最高級のデジタルスタンプだ。
その直後、画面の向こうのS羅が息を呑み、椅子から立ち上がらんばかりに狂喜乱舞した。
「えっ!? ちょっと待って!……すごい……T也さん!? 『神の降臨スタンプ』ありがとうーー!! スタンプめちゃくちゃ綺麗! さすがT也さん、いつも私のピンチを救ってくれるぅ~。本当に大好き!!」
脳の奥底で、ドクドクとドーパミンが分泌されるのをT也はリアルに感じた。
全身の毛穴が開くような、強烈な快感が這い上がってくる。
1秒前までの彼は、社会から無視された、ただの透明人間だった。
しかし今、10,000円の電子ギフトを投げた瞬間、絶世の美女が自分のアカウント名を叫び、狂おしいほどの感謝を捧げ、自分を「特別扱い」している。
「名前を呼ばれる快感」が、1回10,000円。
このアプリは、現代社会に蔓延する「誰にも認められない孤独」を、“1秒単位の承認欲求”へと変換し、極限までマネタイズする冷徹な集金システムだった。
このライブ配信アプリが恐ろしいのは、ライバーとの「親密さ」や「貢献度」が、すべて冷徹な「数字」として可視化され、他のファンと競わされる構造になっている点だ。
配信画面の隅には、その月に誰がどれだけギフトを贈ったかによって順位が決まる「ファンランキング」が常に常駐している。
T也はその過疎部屋で、長らく「トップファン」の座を維持していた。
自分の名前がランキングの最上段に君臨し、他の視聴者からチャットで称賛されることも彼の歪んだ自尊心を大いに満たしていた。
しかし、そのパワーバランスはある夜、突然崩れた。
新しく入ってきたアカウント名「Kっち」という男が、配信開始直後から数千円規模のギフトを連続で投下し始めたのだ。
S羅の目が輝き、新参者のKっちを過剰にもてはやし始める。
「えー! Kっちさん初見なのにすごい~!うれしい! ありがとうございます! もしかして、今夜中にT也さんのランキングを抜いちゃったりしちゃうかもぉ……!?」
その瞬間、T也の心にどす黒い嫉妬と焦燥感が燃え広がった。
(俺がこれまで、どれだけS羅を支えてきたと思っているんだ。この部屋のトップは俺だ。新参者にその座を譲るわけにはいかない)
それは純粋な恋愛感情というよりも、キャバクラやホストクラブのそれと同じ、サンクコスト(埋没費用)がもたらす執着と独占欲だった。
これまで数ヶ月、何十万円も投資してきた「トップファンの地位」を失うことは、自分のこれまでの投資がすべて無駄だったと認めることに等しかった。
T也は狂ったように画面をタップした。
3,000円……
5,000円……
そして再び10,000円の高額ギフト。
Kっちも負けじと高額ギフトで応戦する。
この時のT也は知る由もなかった。
実は、この「Kっち」という男はS羅が所属するライバー事務所のマネージャーであり、T也の重課金をさらに煽り立てるために送り込まれた「サクラ」であるという事実を……。
画面の裏側で、S羅とKっちはリアルタイムでLINEを繋ぎ、
「T也、完全に釣れてる。もっと煽って。」
「じゃあ5,000円の投げるから、次来たらT也にマウント取らせて」
と冷酷な作戦会議を繰り広げていた。
その夜のバトルが終了した時、T也は消費者金融から借り入れた金で1位を死守した。
彼のスマートフォンからは5万円以上の金が電子の藻屑となって消えていた。
手元に残ったのは、熱を持った端末の感触と、翌月のクレジットカード決済の恐怖だけだった。
契約社員であるT也の手取り月収は、約22万円。
家賃や食費、光熱費などを除けば、自由に使える金は5万円程度が限界だった。
しかし、競合ファン(に変装した事務所関係者)であるKっちとの不毛なマウント合戦や、ライバーS羅からの「今月のイベントは絶対に勝ちたいの。」というおねだりに応え続けるうちに、彼の可処分所得は一瞬で底をついた。
クレジットカードの利用限度額は、アプリ内通貨のチャージによって3ヶ月で天井を迎えた。
支払いをリボ払いに変更して急場を凌いだが、それは破滅へのカウントダウンを早めただけだった。
そして、ある土曜日の夜、ついにカードが止まった。
画面には「決済エラー」の文字。
その日は、S羅が年間で最も重要視している「一斉入賞イベント」の最終日だった。
画面の中のS羅は、「みんな、あと少しで悲願の1位になれるの! お願い、力を貸して!」と、今にも涙がこぼれ落ちそうなほど目を潤わせて訴えかけている。
さらに、Kっちが「S羅ちゃんに“1位”をプレゼントしたい!俺もいけるところまでいきます!」と、絶妙にT也の競争心を煽るコメントとギフトを重ねていく。
(俺が投げなきゃ、俺が助けなきゃ、S羅の夢が終わる。Kっちに持っていかれてたまるか!)
完全に洗脳状態にあったT也は、深夜にもかかわらず、財布を持ってアパートを飛び出した。
向かったのは、国道沿いにある消費者金融の無人自動契約機コーナーだ。
看板のキャッチコピー通り、機械の指示に従って免許証をスキャンし、あっけないほど簡単に「限度額50万円」のローンカードが発行された。
T也はそのままコンビニへ走り、現金をすべて電子マネーのギフトカードに換え、アプリに全額チャージした。
再び配信の戦場に戻ったT也は、イベント終了の5分前に1発10,000円のスタンプを10連続で「爆撃」した。
T也が投げた高額ギフトのスタンプが画面いっぱいに表示され、キラキラと光のエフェクトで埋め尽くされた。
S羅が悲鳴のような歓声をあげる。
「きゃーーー!T也さん……凄すぎる!! 10万ポイント!? 嘘でしょ……。わぁ~ん、大好き、本当にありがとう!!」
結果、S羅はイベントで1位を獲得した。
配信枠は歓喜の渦に包まれ、T也はヒーローとして称えられた。
有頂天になったのも束の間、画面が暗転し、配信が終了したのは午前2時。
静まり返った6畳間の部屋で、T也は激しい虚脱感に襲われていた。
彼の財布の中には、消費者金融から借り入れた「借金」の明細書だけが残されていた。
一度、消費者金融の敷居を跨いでしまうと、金銭感覚は一気に崩壊へと加速する。
T也にとって、ATMから引き出す現金は「自分の将来を前借りした借金」ではなく、アプリ内でS羅の気を引くための「ただの弾薬」に思えるようになっていた。
A社で限度額に達すれば、次はB社、その次はC社……。
スマホの画面上には、複数の消費者金融アプリのアイコンが並び、毎月の返済日がカレンダーを埋め尽くした。
「T也さん、最近元気ないね……? 大丈夫? 私、いつでもT也さんの味方だからね」
配信中に投げかけられるS羅からの優しい言葉が、T也の唯一の救いだった。
彼は完全に、心の隙間を突いた「孤独のサブスクリプション」に契約させられていた。
毎月、給料が出た瞬間に、その全額が消費者金融への返済と、新たな投げ銭チャージに消えていく。
食費を極限まで切り詰めるため、日々の食事は1袋30円のうどんと、水道水だけになった。
栄養失調で肌はボロボロになり、会社でも集中力を欠いてミスを連発するようになった。
しかし、破綻の日は静かに、そして確実にやってくる。
借入総額が年収の3分の1に達する「総量規制」の壁にぶち当たった時、すべての金融機関からの追加融資がストップした。
クレジットカードの枠も完全にゼロ。
その夜、T也は1円もチャージできない状態で、S羅の配信を無課金のアカウントで見つめていた。
画面の向こうでは、かつて自分が蹴落としたはずの競合ファン「Kっち」と、また新たに現れたファン「Gさん」が、高額スタンプを交互に連発していた。
S羅は満面の笑みで「2人とも本当にすごい~!Gさん、初めましてなのにありがとう~!大好きーー!」と叫んでいる。
T也がチャット欄に「S羅ちゃん、今夜は金がないからスタンプ贈れない、ごめん」と書き込んだ。
だが、常に何百通ものチャットを処理するS羅の目は、T也が放った文字を完全にスルーした。
いや、気づいていたとしても、もう金を生まないファンに割く時間など、1秒もないのがこの世界のルールだった。
T也は、自分が応援できなかったせいでS羅に嫌われてしまったのではないか、という底なしの不安に怯えながら、画面を見つめることしかできなかった。
“地獄の返済生活”はT也を確実に追い込み、何の抵抗もできぬまま“地獄の底”へ突き落されていった。
家賃を長期滞納し続けた結果、強制退去処分を受け、アパートを追い出されてしまう。
会社も無断欠勤の末にクビになり、今は自己破産の申し立てを行うために弁護士事務所へ通う日々を送っている。
多重債務の総額は、契約社員の年収を遥かに超える450万円に達していた。
携帯電話は料金未払いで強制解約され、かつて麻薬のような快感を提供してくれたあのアプリのアイコンをタップすることすら、もうできない。
T也は冷たい風が吹く歩道橋の上で、ポケットの中の空っぽの手を握りしめ、
「俺がもっとお金を持っていれば、今でもS羅ちゃんは″K也さん、大好き”って言ってくれたのかな……ごめんね、S羅ちゃん……」
と、“自分を裏切っていた世界”に対して、未だに懺悔のような言葉を呟いていた。
ふと、最後に覗いたあの過疎部屋の光景が頭をよぎる。
自分が1円も投げられず、チャットすら無視されたあの夜。
当時は「S羅ちゃんを怒らせてしまった」「俺がトップファンの義務を果たせなかったからだ」と自分を責めることしかできなかった。
だが、すべてを失い、脳の麻薬が完全に切れた今、冷徹な現実が頭を殴りつけてくる。
(違う。嫌われたんじゃない。最初から俺はただの“カモ”……人間として見られてすらいなかったんだ……)
財布に残った、消費者金融の利用明細と破産手続きの書類。
これらと引き換えに得た、S羅ちゃんが自分の名前を呼んでくれたあの甘い声。
あれは僕に向けられた愛情ではなく、ただの「入金完了アナウンス」だったのだ。
金を生まない容器に用はない。
だからこそ、彼女の目は僕の言葉を映さず、ゴミを捨てるように一瞬でブロックした。
「……あはは、バカみたいだ」
カサカサに乾いた笑いがこぼれ、涙と一緒に冷たい風に吸い込まれていく。
自分が命を削って捧げた450万円は、今頃あの画面の向こうの誰かの、贅沢なディナーやブランド品に変わっているのだろう。
自分にはもう、1袋30円のうどんを買う小銭すら残っていないというのに……。
通信の切れたスマートフォンの真っ黒な液晶画面に自分の酷い顔が映る。
自分が都合よく踊らされていたピエロだとは夢にも思わず、ただ自分の財力不足を呪いながら、彼は社会の暗闇へと静かに消えていった。
