介護で10代からずっと極貧、社会の底辺に完全固定された32歳男性の末路

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E太(32歳)の手のひらは、同世代のサラリーマンのそれとは全く違っていた。
指先はささくれ立って荒れ狂い、爪の隙間にはどれだけ洗剤をつけて洗っても落ちない薄黒い汚れが染み付いている。

現在の彼の主たる生業は、週に4日、深夜から早朝にかけて広大な物流倉庫でひたすら段ボールを仕分ける時給1,200円の派遣労働だ。
深夜手当を含めても税金を引かれ、手取りは月に約13万円ほど。

ここから家賃と、自分と「もう1人」の食費、そして最低限の光熱費を捻出すれば、財布の残金は毎月ほぼゼロになる。

「貯金ですか? そんなもの、生まれてから一度もできたことがありませんよ。通帳の残高が5桁を超えると、何か大きなトラブルが起きて一瞬で消えるんです。まるで呪いですよ。」

E太は自嘲気味に笑うが、その目は一切笑っていない。
奥に澱んだ、深い諦念の色彩がへばりついている。


彼の「極貧のバトン」が本格的に回り始めたのは、今から15年前、彼がまだ17歳の時だった。
当時、地方の公立高校の2年生だったE太は、目立つ存在ではなかったが勉強もスポーツもそれなりにでき、土日は近所のホームセンターでアルバイトをしてお小遣いを稼ぐなど、それなりに充実した日々を送っていた。

そんなE太は、高校卒業後は地元の専門学校へ進学し、当時普及し始めていたIT関連の技術を学んで、将来は「小さな会社でも良いからシステム系の仕事がしたい!」というささやかながら現実的な夢を持っていた。

しかし、同居していた祖父が脳梗塞で突然倒れてしまったことによって、そのささやかな夢は一瞬で消え去った。

父親はE太が物心つく前に蒸発しており、家族は母親と祖父母、そしてE太の4人暮らしだった。
母親は近所のスーパーのパートを掛け持ちして、朝から晩まで身を粉にして家計を支えていたが、祖父が寝たきりになると同時に、今度は祖母がその急激な環境の変化とストレスから認知症が一気に進んでしまった。

家の中は一瞬にして、意思疎通の取れない高齢者2人を抱える「密室の戦場」へと変貌したのだ。

「私が働かなきゃ、明日食べる米も買えないのよ! あなたが学校に行っている間、誰がじいちゃんとばあちゃんを見るの!?」

パニックになり、夜中に泣き叫びながらE太の胸ぐらを掴む母親を前に、17歳の少年が選べる選択肢はかなり限られていた。
金銭的な余裕もなく、精神的に追い詰められた母親1人に任せるわけにはいかない…。

E太は専門学校へ進学する夢は諦め、アルバイトも辞めた。
高校を中退することも考えたが「高校だけは卒業しなさい」という母親の希望もあり、このまま通うことにした。

こうして、学校が終わったら急いで帰宅し祖父母の面倒を見る「ヤングケアラー生活」が本格的に始まった。


それから、20代前半くらいまでの記憶は、常に「汚物」と「睡眠不足」、そして独特の薬品のような匂いにまみれた生活だ。

朝は祖父母のオムツを替え、肌着を洗濯し、デイサービスの送り出しをする。

母親がパートに出ている間、徘徊を繰り返す祖母の後ろに付いて歩いた。

目を離せば他人の家に勝手に立ち入ろうとしたり、遮断機が下りているのに線路を渡ろうとする。

夜は母親と交代で数時間おきに起き上がり、祖父の痰(たん)の吸引や寝返りの介助を行った。


同世代の友人たちが大学を卒業し、小綺麗なスーツを着て「新社会人」としての一歩を踏み出している頃、E太は薄汚い4畳半の部屋で、祖父母の理不尽な怒号と意味の成さない呻き声を聞きながら、カビの生えた天井を見つめていた。

その後、24歳で祖父が逝き、26歳で祖母が後を追うように逝った。
それまでの9年間、彼の最も楽しく瑞々しいはずの青春は、完全に社会から隔離され、消滅した。

祖父母をようやく見送り、葬儀のバタバタが落ち着いた。
体は疲れ切っていたが、心のどこかで「これでようやく、自分の人生と向き合える」という微かな希望を抱いていたのも事実だった。


26歳になっていた彼は遅すぎる就職活動を始めるため、ハローワークへと足を運んだ。
しかし、現代の日本社会は彼が想像していた以上に冷酷で、機能的で、そして排他的だった。

履歴書の「学歴・職歴」の欄を前にして、E太のペンは完全に止まった。
高校卒業後の8年間、彼には書くべき職歴が何もないのだ。
職歴なし、資格なし、スキルなし。

面接まで漕ぎ着けた数少ない中小企業の面接官は、みな一様に怪訝な顔で彼の履歴書を見つめ、同じ質問を投げかけてきた。


「高校を卒業してから現在に至るまで、アルバイトもしていなかったのですか?……この空白の期間、あなたは何をしていたんですか?」

「高校2年生の時に週2回、5か月ほどホームセンターでアルバイトをしていましたが、その後はずっと祖父母の在宅介護をしていました。母親と2人で、ほぼワンオペに近い状態だったもので、働く時間がどうしても作れませんでした。」

その事実を実直に伝えた瞬間、面接官は何度もうなずきながらも目の奥から光が無くなり一気に引いているのを、E太は何度も肌で感じた。

企業が中途採用に求めるのは「即戦力となる実務経験」か、あるいは「何でも言うことを聞く新卒の若さ」だ。

学歴も職歴もない26歳の男は、彼らがどれだけ大義名分を掲げようとも、単なる「リスクの塊」としてしか見なされなかった。

「介護は大変でしたね。立派なことだと思います。ただ……、我が社が求めている人物像とは、少々ミスマッチな部分がございまして……」



何十社と受けても、ポストに届くのは「お祈りメール」と称される冷淡な不採用通知ばかり。
結局、正社員としての就職は一社も決まらず、日々の食費すら危うくなったE太は、生きるために日雇いの派遣労働や、数ヶ月間の期間限定アルバイトを転々とするしかなくなった。

時給1,000円前後の非正規雇用。
もちろんボーナスはなく、有給休暇も形骸化しており、交通費すら自己負担という悪条件の現場も珍しくなかった。

毎月の家賃と最低限の光熱費を払えば、手元に残るのは数千円。
衣服は高校時代からの生き残りを着回し、靴の底が減れば100円ショップの接着剤で補修した。

同世代のサラリーマンが順調に結婚し、子供を授かり、車を買い、キャリアを積んで役職に就いていく中で、E太の精神的・社会的な時計は17歳のあの日から1ミリも動かないまま放置されていた。

「貯金をする暇なんて、本当に一瞬もありませんでしたよ。今日を生き延びるために、明日入ってくる予定のお金をすべて使い果たす。未来のことを考える余裕なんて持ったら、その瞬間に精神が崩壊しますから。そんな毎日が僕の20代のすべてです。」



そして、彼が31歳になった年、運命の神様は、E太に残されていた最後のわずかな可能性すらも、容赦なく奪い去った。

女手一つで自分を育て上げ、ともに祖父母の過酷な介護を戦い抜いた、戦友とも言える最愛の母親(59歳)が、パート先のスーパーのバックヤードで突然意識を失って倒れたのだ。

救急搬送された病院で告げられた病名は「くも膜下出血」。
即座に緊急手術が行われ、一命を取り留めることはできたものの、脳に深刻なダメージが残った。

数ヶ月の入院生活を経て、医師から告げられたのは、高次脳機能障害による激しい感情の起伏、および左半身の完全な麻痺という残酷な現実だった。

退院した母親に下された公的な判定は「要介護3」。
自力での立ち上がりや排泄は不可能な状態だった。

「どうして……。また僕なんだ……。僕が前世で何か大罪でも犯したというのか。」

病院の薄暗い廊下で、E太は両手で頭をかきむしり、声を殺して慟哭した。
デジャヴ(既視感)のような絶望が、より一層の質量を持って再び彼の肩にのしかかる。

母親をどこか施設に預けるという選択肢も、当然頭をよぎった。
しかし、現実の壁は高かった。

民間の有料老人ホームは月額15万〜20万円が相場であり、到底払えない。
比較的費用が安いと言われる公的な「特別養護老人ホーム(特養)」であっても、母親が受給できる予定のわずかな国民年金(月額換算で約5万円)と、E太の現在の非正規の収入(月13万円)では、月の利用負担金を支払った時点で、2人の生活基盤は完全に消滅する。

さらに、まだ50代後半という年齢の母親は、高齢者(原則65歳以上)を優先する特養の入所基準からも外れやすく、ケアマネジャーからは「順番待ちは何年かかるか分からない。実質的に今すぐの入所は不可能」と告げられた。

「ヘルパーさんを毎日何時間も頼むようなお金もありません。結局、選択肢なんて最初から用意されていないんです。僕が自分の働く時間をさらに削って、家で面倒を見るしかない。14年前と、何一つ変わっていないんですよ。」

E太はそれまで週5日入っていた派遣のシフトを、週4日に減らさざるを得なかった。
夜勤の間に、障害を負った母親がベッドから転落して大怪我をしないよう、リサイクルショップで購入したセンサーマットを床に敷き詰め、後ろ髪を引かれる思いで、深夜の冷たい街へと稼ぎに出る日々が始まった。

かつて祖父母の介護で20代を丸ごと失った若者は、こうして30代のすべてをも、実母の介護という名の“底なし沼”に捧げることになった。



母親の介護が再開されてから1年が経過し、32歳になったE太の生活は、もはや一過性の不運ではなく、日本の社会構造の最底辺へと完全に「固定」されてしまっていた。

現在の彼のタイムスケジュールは、人間の尊厳と体力を極限まで削り取るような悪循環の連続だ。

夕方5時にアラームの音で起床し、重い体を起こしてすぐに母親のオムツ替えと排泄介助を行う。

その後、母親の硬直した身体を拭き、簡単なおかゆなどの夕食を準備してスプーンで口へ運ぶ。

夜9時、母親をベッドに横たわらせ、寝返りが打てない体をクッションで固定。

そして夜10時から翌朝7時まで、暖房の効かない広大な物流倉庫で、冷え切った段ボールをひたすら右から左へと運び続ける肉体労働に従事する。

朝8時に帰宅すると、衣服を脱ぐ暇もなく、再び母親のオムツを替え、朝食を食べさせ、そこから昼過ぎまで、泥のように浅い眠りにつく。


この生活を続ける中で、E太自身の心身も確実に限界を迎えていた。

20代の頃からの無理が祟った慢性的な激しい腰痛と、自律神経の乱れによる深刻な不眠症。
しかし、病院を受診するお金も時間も惜しいため、彼はドラッグストアで一番安価な大容量の鎮痛剤を購入し、それを規定量を超えて毎朝何錠も胃の中に流し込むことで、辛うじて動く身体を維持している。

何よりも残酷なのは、「32歳」という年齢が持つ、日本の労働市場における絶対的な意味だった。

通常の転職市場において、30代前半はこれまでの経験を活かして「キャリアのステップアップ」を果たすことができる、事実上の最後のチャンスとされる。

しかし、職歴が「派遣・アルバイト」のみで、なおかつ「現在進行形で重度の要介護者を抱えている」32歳の男を、あえて正社員としてゼロから育成しようとする奇特な企業は、この資本主義社会のどこにも存在しない。

「もし、いま介護の手を数日間休めて奇跡的に就職活動をしたとしても、100%落とされます。それに、僕が面接に行っている数時間の間に、母が家でパニックを起こして転落し、頭を打って死ぬかもしれない。僕にはもう、まともな仕事を探すという『挑戦の権利』すら奪われているんです。生まれた時から負け戦が決まっていたようなものです。」


かつての同級生たちの近況を知ることができるSNSのアプリは、何年も前にスマートフォンから削除した。

アカウントを残していた頃は、画面を開くたびに狂いそうになっていた。

そこには、会社で役職に就いた報告、結婚式の華やかな写真、生まれたばかりの子供の成長を祝う投稿、そして「マイホームを購入しました」という誇らしげな家族の笑顔が溢れていた。

彼らは、普通に学校を卒業し、普通に就職し、普通に恋人を作り、普通に資産を築いてきた「持てる者」たちだ。


一方のE太は、ただ「家族が病気になった」という、確率論的に誰の身にも起こりうる不運に見舞われた、ただそれだけの“大前提”によって、青春を奪われ、キャリアを奪われ、資産形成の機会を一度も得られないまま、“貧困層”から絶対に這い上がれない蟻地獄のような“社会のシステム”の中で生きたまま今もずっと閉じ込められている。

冬の冷たい雨がコンクリートを叩きつける夜、E太は築40年を超える古い公営団地の一室で、蛍光灯の不快なブーンという唸り音を聞きながら、カビ臭いキッチンに突っ立っていた。

彼は、特売で購入した冷え切った食パンに、大容量のマヨネーズを細く塗って、そのまま口の中に押し込んでいた。
これが彼の、今日の唯一のまともな食事であり、夜勤へ向かう前の「儀式」だった。

奥の薄暗い寝室からは、脳の障害によって感情のコントロールが完全に効かなくなった母親が、不自由な右手で壁を何度もドンドンと激しく叩きながら、「お腹が空いた!」「誰かいるの!」「私を置いてどこへ行くんだ!」と、金切り声を上げて叫ぶのが聞こえる。
かつて優しかった母親の面影は、もうそこにはない。

「テレビやネットで、若者の貧困問題とか、ヤングケアラーの公的支援とか、政治家が綺麗事をいろいろ言ってますけど、僕たちのところにはただの1円も、何の具体的な手助けも届きません。17歳で始まった地獄が、32歳になっても、何一つ形を変えずに続いている。これが僕の人生のすべてで、これからも変わることはないんです。」

彼には、将来に対する建設的な展望が何一つない。

母親の介護がこの先何年、あるいは何十年続くのかも分からない。

傷だらけの精神で、ただ一日をやり過ごす。

そして、もし仮に何らかの形でその介護が終わりを迎えた時、自分は40代、あるいは50代になっているだろう。

その時、職歴が完全に空白の、身も心もボロボロになった中高年の独身男性に、一体どんな仕事や居場所が残されているというのだろうか。

待っているのは、孤独死へのカウントダウンだけだ。

「子供を持つとか、結婚するとか、僕にとってはアニメや映画の中の、異世界の出来事ですよ。自分の今日明日の生活費だけで精一杯なのに、新しい家族を作るなんて想像すらおこがましい。でも、それでいいんです。

僕の代で、この呪われた『貧困と介護のバトン』は強制終了です。こんな地獄のような絶望、もし僕に子供が生まれたとしたら、その子にだけは絶対に引き継がせたくないですから。ここで終わらせるのが、僕ができる唯一の親孝行であり、社会へのささやかな抵抗です。」

世間が「自己責任」や「努力不足」という都合の良い言葉で片付けようとする貧困の裏側には、若者がその若さと優しさゆえに、家族という檻から逃げ出すことができず、自らを犠牲にした末の、生々しい血の跡と叫びがある。

夜勤明けの午前8時半。

冷たい雨はようやく上がっていたが、どんよりとした灰色の雲が街を低く覆っていた。
E太は泥のように重い足を前に進め、いつものように団地の階段を上る。
手すりを掴む右手が、寒さと疲労で小刻みに震えていた。

玄関のドアを開けると、換気扇の回っていない室内から、ツンとした排泄物の匂いと、淀んだ空気が鼻を突く。

「ただいま……。」

小さく声をかけるが、奥の部屋からは返事がない。

ただ、ベッドの柵がガタガタと鳴る音だけが響く。

母親はすでに目を覚まし、またしても不機嫌な世界の淵にいるのだろう。

E太は上着を脱ぐのももどかしく、すぐにキッチンで手を洗い、母親の部屋へと向かった。

予想通り、オムツは限界を迎えており、シーツの端まで湿っていた。
手際よくオムツを替え、新しい防水シーツを敷き直す。

14年間の経験が、彼の身体を機械のように正確に動かさせる。
“感情”は動かしてはいけない。

怒りや悲しみを覚えた瞬間に、介護の手は止まってしまうからだ。
心を完全に“無”にすることが、この部屋で生き延びる唯一の技術だった。

一通りの介助を終え、母親にドラッグストアで買った安い高栄養ゼリーを飲ませた後、E太はようやく自分のパイプ椅子に腰を下ろした。
窓の外を見つめると、電線にとまったカラスが濡れた羽を震わせている。


「よく『明けない夜はない』なんて言いますけど、僕の夜はもう14年も明けていないんです。それどころか、年を追うごとに暗闇が深く、濃くなっている気がする。」

それでも、E太の心の中に、もはや世間を呪うような激しい感情は残っていなかった。
かつて持っていた「どうして自分だけが」という怒りは、長い時間の摩擦によって角が取れ、今では滑らかで冷たい「覚悟」へと変わっている。


彼は知っている。
明日も、明後日も、そして来年も、薄汚いこの部屋で母親のオムツを替え、深夜の倉庫で段ボールを運び続ける日常が続くことを。

社会のスポットライトが当たることもなく、誰かに褒められることもない、蟻地獄の中で這い上がれず、見捨てられた人生。

しかし、E太はゆっくりと深呼吸をし、自分の荒れた手のひらを見つめた。

「誰にも認められなくても、僕は今日まで母を生かしてきた。17歳の時からずっと、逃げずに背負い続けてきた。それだけが、僕という人間がこの世に生きた唯一の証明です。」

10分後、彼は母親の部屋のカーテンを静かに閉め、自分の布団に潜り込んだ。

数時間後には、またあの薄暗く冷たい物流倉庫への出勤時間がやってくる。


這い上がることのできない底辺の沼の中で、それでも32歳の男は、自らの意思で明日の呼吸を繋ぐために、静かに目を閉じた。


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